夜の下り列車
夜の、客もまばらな下り列車の中で、美人と向き合うかたちで座席に腰掛ける時間は幸せだ。しかも厚ぼったい唇に、控えめなのにしっかりと主張する赤めのルージュが施され、下を向き文庫本を読んでる美人だ。髪は黒く、でも黒すぎてその重さに陰鬱な気分を想起させるようなものでなく、あっさりとした黒だ。それを右の方だけ耳にかけ、時折欠伸なんかしている姿は一段と美しい。白を基調とした花柄のワンピースで、薄桃色のカーディガンを羽織り、どういうことかしらん、膝は微妙に閉じ切られてはおらず、いささか無防備な頭の悪さを醸し出している感じが、またいい。
そのくせ読み入っている文庫本が水上勉の飢餓海峡。東野圭吾とか桐野夏生じゃないところが、私を複雑な意味で駆り立てる。この意図的とも言えぬアンバランスさが、一段と美を引き立てる。久しぶりに三國連太郎主演の飢餓海峡を観たくなった。
そうしてるうちに新宿駅。大量の客が乗り込んできて、空いていた座席は瞬時に埋まる。飢餓海峡美人と私の間にも多くの乗客が立ち塞がる。視界は遮られ、車内は酒の匂いでにわかに騒々しくなる。
赤羽駅に着いたときには、彼女の姿はもう見えない。幻のような時間に囚われる、日曜日の、夜の下り列車が好きだ。